あなたはなぜ「志事」をするのか?【起業物語その1】
こんにちは。
ヒットメイクコンサルタント
安田裕紀です。
久しぶりに、
このブログでも圧倒的に人気の高い【起業物語】を
2014年最新版として書き換えていきたいと想います。
2012年は「ニセン”自由”に成る年」
2013年は「巳年」=「”実”を結ぶ年」
そして、2014年のテーマは、
このブログでも何度もお話ししているとおり、
「感動を、与えられる人になろう。」
単に、モノを買うだけの”消費者”ではなく、
単に、モノを売るだけの”販売者”ではなく、
「感動を与えられる人」になりたい。
そして、同じように、
ご自身に関わる、お客様、スタッフ、仲間に、
感動を与えたい!と強い想いを抱いた起業家や経営者の皆様の
下支えとして全力を尽くすことを決意したのが、この2014年。
この起業物語は、
私のライフストーリーではないですが、
起業するまでの経緯と、起業を決断してから今に至るまでのことなど、
つらつら書いていきたいと想います(´▽`♪
(↑以前書いていたものに少し手を加えております。)
単に私の人生物語を書いても面白くないですので。
今では、Facebookやブログ、メルマガを通して、
「(私も)起業を目指してがんばっています!」
「憧れます!」...(照)
メールやメッセージをいただくことが
年々、増えてまいりました。
私の転機やきっかけ、気づきを交えながら綴っていくことで、
これから、将来、起業独立したいという会社勤めの方や大学生、
また、起業したけれど想う成果を手にできていないという方にとって、
このお話が、
今後の「仕事の発展」や「行動の加速」を後押しする
ヒントになれば何より嬉しいです。
よろしければお付き合いください。
↓↓↓↓
兵庫県西宮市に生まれました。
大学で東京に上京するまで、合計4回引越しをしていますが、
父の仕事の関係で、車15分圏内での移動でずっと西宮市にいました。
転勤族なんて言われる方をちょっと羨ましく思ったり・・・。
実際にお会いしたことある方からは、
「え!?関西出身なのですか~(驚)」
と驚かれるほど仕事のときは、標準語です。
無理しているわけではなく、
上京してからの色々なアルバイト経験で自然とこうなりました。
仕事を通じてそうなったからか、丁寧な標準語は話せますが、
標準語のタメ口は話せないという不思議な状況です。
関西の人に話しかけられたり、関西の友人や家族からの電話を取ると瞬時に関西弁に戻ります。笑
あ、あと、焦ったり、怒ったりしても出るらしい...です。
3人姉弟の真ん中&次女なこともあり、
いつも2歳年上の姉を追いかけていました。
習い事も塾も学校も、姉と同じ事を自分もやりたい。
ちょっと背伸びしている、ませている?子供でした。
コンサルタントという仕事をしている
今では驚かれますが、
論理的に話す、とか、わかりやすく説明する。
ということはまったく得意ではありませんでした。
初対面の人と、すぐに仲良くなれる、
というタイプでもありませんでした。
(関わる皆様からは、そう言われても全然説得力ありません。
とまで言われます。本当なのに...泣)
学校でも目立つ方ではあったらしいですが、
(あまり自分で自覚はないのです。)
なんせ関西なのでおしゃべりで明るい女子が多く、
その隣で笑っている・・・そんな子でした。
関西の友人には、
「(東京に出てきて)本当変わったよね!」
とすごく言われます。
自分の意見や思った事をズバズバ言うなんて
昔は考えられなかったですね。
(こうなることができたきっかけは、後ほど東京に上京したときに訪れます。)
さて、東京に出てくるまでの私の人生を総称すると、
小学校受験からはじまり、中学受験、大学受験と
とにかく、「受験(勉強)人生」でした。
受験人生なんて書くと、
18年間勉強漬けだったように感じられるかもしれませんね。
実は、ここが有難かったことなのですが、
「勉強をする」=「しんどい、辛い」という感情が沸くことはほとんどなかったです。
これは、学校の先生や塾でお世話になった先生、
なにより両親のおかげです。
小学校は、中学受験を推進している学校だったので、
学校に行っている間はとにかく”楽しむ”こと!
小学6年生のとき学校でやったことといえば、
卒業制作&思い出作りの1年間?という記憶があります(笑)
小学校の塾では、
「勝ち上がり道場」「年越し特訓」「夏休み合宿」など
楽しいイベントが盛りだくさんで、勉強もするけど、
餅つきもするし、怪談話もあるし、年越しそばも食べる!そんな楽しい塾でした。
勉強も仕事も、
いかに ”楽しめる環境” に自分をおけるか、
”一生懸命な自分を楽しめるか” が大事
だと思っています。
ビジネスに置き換えると、
”どうやってお客様を楽しませようか”
”どうやって自分が楽しもうか”
と考える習慣に勝るものはありません。
(実は、このユニークな学習塾での経験が
後に行うビジネスの企画ヒントにもなったのです。)
中学・高校は校則のものすごく厳しい学校で、
部活(バトン部)と勉強に明け暮れていました。
毎日のように宿題があり、宿題を忘れたら、
校内放送で呼び出され、教室のうしろに立たされる・・・!
飴を舐めながら校内を歩いていたり、
スカートの丈が短いと先生に職員室へ連行される・・・!
かなり厳しいですよね^_^;
もちろん今となっては、先生方には感謝しかありません。
毎日があっという間に過ぎていた6年間でした。
もともと医師を目指して中高一貫の進学校に入学したのですが、
(両親は、私は当たり前に医者になるものだと期待していたそうです。)
生物の授業で、実験のビデオを見た瞬間、
「あ、私、(血を見るの)無理だ・・・^_^;」
とあっさりと文系を選択し、
「文系でビジネスの世界に行くなら東京に行かないと。」
と、恐ろしく単純な理由で、
東京の大学を受験することを決意。
関西の女の子はあまり東京に出てくることは少ないのですよね。
そして、いよいよ大学受験で、
ある意味、人生初めての挫折を経験します。
・・・・「志望校に落ちる」
現役生の自信なのか?
滑り止めで他の大学を受けるという選択もなかったので、
1年間浪人生活を送りました。
有難いことに、それまでの人生、
それほど大きな疑問も困難も苦難もなく過ごしてきましたが、
【学生でも、社会人でも、何者でもない。】
何にも属さない1年間は、
宙ぶらりんな毎日で本当に辛かったです。
1年間勉強して、次こそはと本命1校・滑り止め3校を受験しました。
滑り止め3校は無事合格したのですが、
本命をわずか1点足りずに落ちてしまいました。
ただ、後期試験で受験を決めた大学に
(実は、受験当日まで行ったこともなかったのですが。内緒)
無事合格し、19歳で東京に上京してきました。
私はこの合格を「父のふとした一言」だったと感じています。
入試の当日、一緒に東京までついてきてくれた父が、
大学の門をくぐった瞬間おもむろに、
「お父さんこの大学好きだなぁ~。」
この大学に入れる。いや、入ろう。
そんな感情を抱きながら試験を受けたのを今でも覚えています。
今となっては、この大学でよかったと本気で思います。
センター試験前日に大阪駅の階段を30段ぐらい転げ落ちて
全身青あざだらけで試験に臨んだなんてことも、
今ではいい思い出です(笑)
そして、誰も知り合いのいない東京で
一人暮らし&大学生活が始まりました。
ここから、私の人生が180度変わってきます・・・・
明日に続きますー( ´ ▽ ` )ノ