先が不安になったら読みたい!「幸福論」の著者アランの名言集

「幸福論」の著者である、
フランスの哲学者アランをご存知でしょうか?

彼の著書「幸福論」の中では、

幸福は与えられるものではなく、
自分の意思によって作り出されるものである

という考え方を表現しています。

そこで今回は、

先が不安になったら読みたい!
「幸福論」の著者アランの名言集

をご紹介します。

目次


先が不安になったら読みたい!「幸福論」の著者アランの名言集

できるだけ気持ちよく過ごすためには、いやな言葉を吐いたり、いやな思いを抱いたりしてはならない。

幸福になろうとする努力は決して無駄にはならない。

期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ。

最大の不幸とは物事を悪く考えることではないか。人が想像する不幸は、決してあるがままの不幸ではないということを知るだけでも、すでにかなりの成功である。

賢人の言っているように、甕(かめ)にふたつの取っ手があると同じく、どんな事柄にもふたつの面がある。悪いと思えばいつでも悪い。よいと思えばいつでもよい。

いかなる職業でも自分が支配するかぎり愉快であり、服従するかぎり不愉快である。

敏感な人は悲しければ悲しいなりに、嬉しければ嬉しいなりに、必ずそれぞれの理由を考えだすものだ。

幸せだから笑っているのではない。むしろ僕は、笑うから幸せなのだ。

幸福とは贈りあうことによって増えていく宝である。ひとこと、親切な言葉を、心からの感謝の言葉を言ってごらん。

誰だって強いられた仕事は好きではない。好きでやっている仕事は楽しみであり、もっと言えば幸福である。

幸福はあのショー・ウィンドウに飾られている品物のように、人がそれを選んで、お金を払って、持ち帰ることのできるようなものではない。

幸福になろうと欲しなければ、絶対に幸福にはなれない。

気分に逆らうのは判断力の成すべき仕事ではない。姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、我々の中で、運動を伝える筋肉だけが我々の自由になる唯一の部分であるから。

力いっぱい戦ったあとでなければ負けたといってはいけません。これはおそらく至上命令です。

幸福になることはまた、他人に対する義務でもある。

喜びを目覚めさせるためには、何かを開始することが必要である。もしある専制君主が僕を投獄したならば、僕は毎日一人で笑うことを健康法とするだろう。

お辞儀をしたり微笑んだりする仕草は、まったく反対の動き、つまり激怒、不信、憂鬱を不可能にしてしまうという利点がある。

優しさや親切や喜びのしぐさを演じるならば、憂鬱な気分も胃の痛みもかなりのところ治ってしまうものだ。

実際には、幸福や不幸の原因というものはなんでもないのだ。いっさいは我々の肉体とその作用とにかかっている。そしてどんな頑丈な体格だって毎日、緊張から沈滞へ、沈滞から緊張へと、しかもたいがいは食事や、歩行や、注意の努力、読書、天気の具合などにつれて、移っていくものである。君の気分は、それによって上下すること、まるで波の上の舟と同じことだ。そういうものはたいていは取るに足りないものである。何かしているあいだは、少しも気にならない。ところが、それを考える暇ができ、丹念に考えだすと、たちまち小さな理由が大挙して押しよせてくる。

微笑むことや肩をすくめることは、思いわずらっていることを遠ざける常套手段である。

社交生活や訪問や儀式やお祝いがいつも好まれるのである。それは幸運を演じてみるチャンスなのだ。この種の喜劇は間違いなく我々を悲劇から解放する。

戦いが自分の意思で行われるならば、困難な勝利ほど楽しいものはない。

何もしない人間は、何だって好きになれない。

どっちに転んでもいいという見物人の態度を決め込んで、ただドアを開いて幸福が入れるようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみである。

幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。

本当を言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服によるものである。

気分に任せて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。それだけでは済まない。やがていらだち、怒りだす。

悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。

不機嫌というやつは、自分に自分の不機嫌を伝えるのだ。

金儲けの上手い人は、無一文になっても自分自身という財産を持っている。

労働とは最良のものでもあり、最悪のものでもある。自由な労働ならば最善のものであり、奴隷的な労働であれば、最悪のものである。

雨が降り出してきたら、舌打ちなんかせず、軒下に出て悠然と傘を広げよう。傘がなけりゃ、ああけっこうなお湿りじゃないかと言おう。人間関係もこの雨と同じだ。対応の仕方はいくらでもあるものだ。要するに、自分のため、できるだけ気持ちよく過ごすためには、いやな言葉を吐いたり、いやな思いを抱いたりしてはならない。

頭を下げることや、ニコニコすることは、腹立ち・疑い・悲しみを不可能にするという長所がある。だからこそ社交や訪問、儀式や祝祭がいつでも喜ばれるのである。それは幸福を真似る機会である。そしてこの種の喜劇は、我々を確実に悲劇から解放するものだ。これは、つまらぬことではない。

精神上のあらゆる不幸に対して、また初期の病気に対しても、柔軟運動と体操とが必要である。そして、たいていはこの療法だけで間に合うと思う。だが世間の人はこのことを少しも考えない。

どんな平凡な俗人でも、自分の不幸を真似ると大芸術家である。よく言うように心が締め付けられるときには、腕で自分の胸を締め上げ、あらゆる筋肉が互いに突っぱりあう。敵なんかいもしないのに、歯をくいしばり、胸を守り、拳をふりあげる。こういう大げさな身振りは、外にあらわれないときでさえも、じっと動かない肉体の内部でやはり行われているのであって、そのためにいっそう大きな影響を生ずるものなのだ。

気分に逆らうのは、判断力の問題ではない。判断はこの場合なんの役にも立たない。そうではなく、態度を変えて適当な運動をやってみる必要があるのだ。というのは、我々自身のうちで、筋肉というモーターが我々の支配しうる唯一の部分だからである。微笑や、首をすくめることは、心労に対する天下周知の操作である。

死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を考えるのは、幸福な人たちのみである。

不信の力とは、宣託を聞こうとしないことである。聞けば少しは信用するに違いない。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

アランはどんなに困難な状況でも

希望を持ち、
ポジティブに考えることがができるなら、

人は幸福を手に入れることができる

と信じていました。

つまり、

自分の心の持ち方一つで、
幸福になれるかそうでないかが決まる

ということですよね。

先のことばかり考えてしまって
不安になっている。

そんな時、
アランの言葉たちがあなたを幸福へと
導いてくれるかもしれませんよ。

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