【起業のルーツ】地球4周半を走った男。85歳まで家族のために働き抜いた祖父の「最強の生き様」

私が社長を目指した原点には、父方と母方、二人の祖父の存在があります。

二人とも貧しい環境から自分で会社を起こしていて、幼い頃から、その姿に憧れていました。

中でも大きな影響を受けたのが、母方の祖父です。
約67年間トラックやトレーラーに乗り、祖父から聞いた話では
なんと地球約4周半にも及ぶ走行距離でした。

この記事で伝えたいのは、気合や根性の話ではありません。
大事なものを守るために、今何へ時間を使い、どう決断するのか。
その原点をたどります。

目次

起業の原点は、祖父たちへの憧れだった

医師を目指していた私が「社長になる」と決めた

私は、医学部へ進む生徒が多い関西の女子校に通い、当初は、私も医師になろうと考えていました。

転機になったのは、生物の授業で見たカエルに関する映像です。
同じ映像を興味深そうに見ている友人との違いを感じ、自分は医師に向いていないと思ったんです。

そこで、医学部ではなく文系へ進むことを決めました。

次の進路を考えたとき、祖父への憧れから浮かんだのが夢が
社長になることでした。

何をするかより先に、東京へ行こうと決めた

当時は、何の会社をつくるのか、どの業種に進むのかまでは決まっていませんでした。
祖父と同じ業種へ進もうと決めていたわけでもありません。

まず考えたのは、いろいろな会社の本社が集まる東京へ、ひとまず行くことでした。

とにかく社長になる。

明確な事業計画より先に、祖父のような経営者になりたいという憧れが、私の進路を動かしました。

東京へ出てからの歩みは、あなたはなぜ「志事」をするのか?【起業物語その2】でお伝えしています。

何もないところから、自分の仕事をつくった祖父

祖父は貧しい環境で育ち、十分に学校へ通えなかったと聞いています。
終戦後、7歳頃からアメリカの駐在軍の靴磨きをしていました。

祖父が覚えていた言葉は、「ハロー」と「サンキュー」くらい。
笑顔で「ハロー」と声をかけ、預かった靴を誰よりもきれいに磨いていたそうです。

「あの子のところに行けば、靴がピカピカになる」

次第にそんなふうに知られるようになり、
たくさんの少年がいる中で、祖父のところには列ができていました。

稼いだお金を持ち帰り、
「今日はこれだけ稼げたよ」
と母親へ渡すことが、祖父の喜びだったと聞いています。

その後、祖父が自立するときにもらえたのは、馬とリアカー1台。
これが、物を運ぶ仕事の原点となりました。

大きな物や特殊な物など、ほかの人が運びたがらない荷物も引き受け、
運送業を中心に仕事を広げてった祖父。

馬とリアカー1台から始まった仕事は、
最終的に5つの会社を経営し、マンションやビルを所有するまでになりました。

私は孫の中でも祖父の昔の話に興味があり、

貧しい環境から、どうやって仕事をつくってきたのか。
仕事をするうえで、何を大切にしていたのか。

事業の中身というより、祖父が大事にしてきたことを聞きたかったのだと思います。

67年間走り続けた祖父の働き方

トラックやトレーラーで地球4周半分を走った

祖父の仕事は、運送業が中心でした。
約67年間、トラックやトレーラーに乗っていたそうです。

以前、祖父本人から聞いた走行距離は、地球約4周半分
長い間、現役で仕事を続けていました。

祖父は85歳で亡くなったのですが、
その2年前まで、現役で仕事をしていました。

休んでいる姿を見たことがなかった

私の記憶では、祖父が休んでいる姿をほとんど見たことがありません。

お正月に家族が集まった日も、食事や挨拶を終えると、
「わしは仕事なんで」
と言って、仕事へ出かけていく。

そんな祖父の働く姿を見て、大変そうだと思ったこともありませんでした。
「しんどい」「大変だ」と口にする姿も、私の記憶にはありません。

苦しさを表に出さず、背筋が通った人だったという印象が残っています。

どんなときも、原動力は家族だった。

祖父母のもとには、子どもが5人、孫が10人、そして現在はひ孫も10人います。

お正月や誕生日に家族が集まると、祖父は孫たち一人ひとりに
お小遣いと手紙を渡してくれていました。

そしてその手紙を書きたいがために
65歳からパソコンを使い始めました。

お小遣いよりも祖父の言葉と
私たちを想う気持ちが本当に嬉しく、
今でも大切にしまっている宝物です。

このために仕事をしている」と話してくれるほど、
家族が、祖父が働く原動力でした。

けれど80歳を過ぎて、朝につらさや体のしんどさを感じるときもあったと。
母から聞いた話では、そんな朝には孫やひ孫の顔を思い浮かべて、
自分を奮い立たせていたそうです。

厳しさの中で教えてくれた、自分を表現する力

祖父は、厳しい人でもありました。
孫にも敬語で話し、私のことも子どもの頃から名前にさんを付け。

目を見て、大きな声で挨拶をする。
相手に聞こえる声で、きちんと話す。

人として基本的なことを、繰り返し教えてくれました。

実は祖父はカラオケが大好き。
(自分でカラオケスナックをつくってしまうほど!)

家族が集まって食事をしたあとは、必ずカラオケが恒例行事だったのですが
ただただ歌って終わりではありません!

私たち孫は、小学生の頃から
一人一曲、歌うことになっていました。

それはなぜか?

  • 人前に立つこと。
  • 自分を表現すること。
  • 緊張しても一歩前へ出ること。

歌が上手かどうかは関係ありません。
私はカラオケを通して、幼い頃から人前に立つ度胸を育ててもらったと感じています。

今では私が開催する合宿でも、参加者が人前で歌う機会をつくることがあります。

上手にできるかどうかよりも、まず人前に立つ。
祖父から受け取った教えは、今の私の仕事にもつながっています。

阪神・淡路大震災の日に現れたスーパーヒーロー

阪神・淡路大震災が起こったのは小学2年生のとき。
当時、私たち家族は父方の祖父が建てたマンションに住んでいました。

大きな揺れのあと、外へ出ると近くの家が燃えている。
余震も続き、水道やガスも使えません。
まだ、携帯電話も普及していなかった時代です。

家族がどうなるのかも分からない、不安な状況の中
奇跡のようなできごとが起こりました。

大阪に住んでいた祖父が、
その日の夜、私たちの元に駆けつけたのです。

実は高速道路が落ちてしまって通れず、簡単に来られる状況ではありませんでした。

それでも祖父は、孫がいるから行かなければならないと伝え、
なんとしてでも助けに行く!
とトラックを走らせてくれたのです。

大人たちには、その場所に残って周囲の人を助けたり、大切な場所を守ったりする役割がある。
だから子どもたちは自分が連れていく。

突然の混乱の中でも、祖父は自分がすることを決めていました。

トラックには、生活に欠かせない水も積んでありました。

祖父が運んできた水はマンションの貯水タンクへ入れられ、
残った家族たちは地域の人たちへの炊き出しや、おにぎり作りを行いました。

安全が確保されていない中の祖父の行動は、正しかったかどうかはわかりません。
ですが私にとっては、本当にスーパーヒーローでした。

大事な家族を守るために動く姿を、今でもはっきり覚えています。

大切なものを守るために、今の時間をどう使うか

気合や根性の話をしたいわけではありません。

大事なものを守るために、今何へ時間を使い、どう決断するのか。
祖父は、その基準を背中で見せてくれました。

仕事でしんどいと感じるとき、私は祖父の姿を思い出します。
「私が大変だと思っていることなんて、大変じゃない」と思わせてくれる。

祖父は、今も私が戻れる基準です。

自分の道をつくりたいあなたへ

私が社長を目指した原点は、祖父たちへの憧れです。
中でも母方の祖父は、何もないところから仕事をつくり、家族を原動力に働き続けました。

祖父のように、大事なものを守れる自分でありたい。

その思いが、今の私の仕事につながっています。

祖父の話は、私の起業ストーリーをまとめた小冊子『アントレたまご』にも収録しています。
人脈も、知識も、お金もないところから起業し、20年間どのように歩んできたのか。

これから起業したい方や、起業しながら自分の人生を考えていきたい方へ。
勇気やエールになると感想もいただく人気の一冊です。

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